見てもらいたい人に、見せることはできなかった

Journal & Reflections

半・分解展の期間中に父が死んだ。

数ヶ月前に容態が急変し、危険な状態だったので覚悟はしていた。
自力では呼吸もできず、時折ベッドがきしむほどに苦しむ父の姿に、私はあまりにも無力だった。

5月末に東京展が終わり、6月半ばに控えた愛知展の直前に父は永い眠りについた。
愛知に行く直前に、急遽実家に帰り父の顔を見た。
もう苦しむこともない安らかな表情に安堵さえ覚えた。


一番見てもらいたい人に、見せることはできなかった。


半・分解展は、誰よりも父が喜んだはずだ。
誰よりも笑い、触れて、嗅ぎ、着て、感動してくれたはずだった。


服づくりを最初に教えてくれたのは父だ。
小学校4年生の時、私はクリスマスプレゼントに「ミシン」をねだった。
通販カタログにある3万円ほどのミシンを買ってもらったのを良く覚えている。

父は趣味で洋服をつくっていた。

シャツからジーパンから、ジャンパーまで。父は自分の着る服を自分で縫っていた。
私は父にジーパンのつくり方を教わった。
初めての服づくりだった。


今ようやく気付く。父から教わったのは、服づくりじゃなかった。

もっと大切な、原始的な、単純な「好き」という気持ちを教えてもらったんだ。

好きを追及した結果、生まれ落ちたのが半・分解展だった。

あなたの好きに私が触れたように、私の好きはあなたに触れてほしかった。


葬式にはでなかった。


「お前はお前の仕事を全うしろ。オレの葬式になんか来るんじゃねえぞ」
と、生前に何度も言われた。

愛知展の期間中に、父は骨になってしまった。

葬式は兄と母が全てしてくれた。
兄は「こっちは任しとけ」と、力強く押し出してくれた。
母は少し悲しそうだった。

妻と小さな息子2人は個展期間中だけ実家に戻ってもらい、義父が泊まり込みで愛知展のサポートをしてくれた。

自分ひとりではなにもできなかった。
自分の「好き」の為に、大きな負担を家族にかけた。


父との約束は全うした。
私は私の仕事をしたよ。
これでよかったんだろう

 

上記文章は、2018年6月18日に書き殴ったものです。

2016年に独立し、半・分解展を始めました。
2018年は、二度目となる全国巡回展でした。その途中で父が亡くなったのです。


なぜ今、この文章を取り上げたかというと、2025年11月22日から開催する【半・分解展 大阪】を前にして、不安な気持ちでいっぱいだったからです。

昔の自分はどのように行動していたか、どんな気持ちで取り組んでいたか、初心に返るため、師である中野 香織先生のBlogを読み返していました。


2015年6月15日 備えよ常に:チャンスはこうしてつかまえる

中野先生ご本人はもちろんのこと、文章からももの凄くパワーを貰えます。
特に「備えよ常に」の記事からしか得られないパワーがあり、全文を書き起こして自分のPCに保存しているくらいです。

この頃、私はまだ会社員で、くすぶっている真っ只中でした。
そんな私の背中をポンっと押してくださったのが、中野先生でした。
「私の名前を使って良いから、一度外で話してみなさい」と、最大限のフォローアップをしてくださり、中野先生とのコラボ講演が実現したのです。

 

この講演から1年後には、第一子が生まれ、会社を辞め、半・分解展 全国巡回をおこなっていました。
怒涛の独立期間だったと思いますが、中野先生の一押しそのままに突っ走ったことだけを記憶しています。

初個展から二年後、私は二度目の全国巡回展をおこないます。

2018年6月18日 増席満員御礼名古屋展 ありがとうございました

この中野先生の記事を読み返したとき、父の死について、また想い返すきっかけとなりました。
当時、父との約束を果たすため、葬式には出ずに仕事に専念。
その結果、2018年の展示で初めて大きな利益を上げることができたんです。


半・分解展を父が見たら、すごく喜んでくれただろうなと思います。
私の型紙を使って、服を縫っただろうなと思います。
見てもらいたい人に、見せることはできなかったけれど、3人の子供たちには見せられています。
(書き殴った文章のなかでは2人だったけど、3人になったんだよ)



次男が一番興味津々です

この記事を書き始めてから父の夢をみました。
すごく苦しむ姿が、父との最期の記憶でした。でも、夢のなかの父はすごく笑っていました。

「半・分解展 大阪」そして、「アール・ヌーヴォーとスーツ」展の開催まであと少し。
頑張りたいと思います。


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